2013年3月21日木曜日

「itadakimasu」を世界語に!

とある翻訳サイトで「いただきます」を翻訳したら「Let's eat.」と出てきた。
私は思わず「ふざけんな!全然違う!責任者出て来い!バカヤロー!」と(心の中で)叫んでしまった。
「いただきます」に含まれる意味は「それ、喰え」何ぞという意味ではないと思っている。

我々日本人は食事をする前に、両手を合わせて「頂きます」と言う。
一般的には「両親や、食料を作ってくれた人、動物に感謝する」ために「頂きます」と言われているようだが、私はもっともっとDEEPだと思っている。

まずはじめに植物。植物への感謝を含めなければならない。
細胞レベルで見れば、植物も動物もたいして変わりない。多くの植物はセルロース製の硬い細胞膜に覆われ、すばやく動くことに適していないが、細胞内の葉緑体によって光合成を行い、有機物(栄養素)を生成している。この硬い細胞膜によって強固な身体をつくり、光を求めて100m程の高さになる植物も存在する。多くの動物は硬い細胞膜がないかわりに自由に体を動かしやすく、葉緑体をもたず栄養素を生成できないため、他の生物(植物の場合もあり、動物の場合もある)を捕食して、自らの栄養を獲得している。
栄養素の獲得方法は異なるが、それ以外の生命活動は細胞レベルではほとんど同じなのだ。

「動物には意識があるというが、植物にはない」との意見もあるかもしれない。しかし、最近の研究ではブドウに音楽を聞かせたらワインがおいしくなったとか、群落の一箇所に害虫を近づけたら、フェロモンのような物質が分泌され、群落一体の植物が害虫に対する警戒態勢をとったなどという報告がある。
これらは我々人間にはわからないが、植物には植物なりの意識やコミュニケーションがある証拠だと考えられないだろうか。

ちなみにちなむと、維摩経という経文には「香りで法を説く仏の世界」という話が出てくる。「意地汚くてボンクラが住む世界で、言葉で法を説かなければならない釈尊は大変だね」というセリフもある。
もしかしたら「香りで法を説く仏の世界」とは植物の世界のことかもしれない。

話を戻そう。
生命体というレベルでは動物も植物もほとんど変わりない。その意味で「いただきます」には、植物への感謝を含めるべきと考える。

次に「他の生命体を頂くからには、何かしら世のため、人のために頑張ります」との決意が篭っている言葉だと思っている。
エネルギーとエントロピーの開放系である生命体は、外部からエネルギー密度の高いものや、低エントロピーのものを取り入れ、高エントロピーの熱や、利用が難しい排泄物を出さなければ、命を繋ぐことができない。すくなくとも、現在地球上のすべての生物はこれに当てはまる。

万物の霊長たる人類が、単なる糞袋として、無為に過ごしてよかろうはずがない。人様に迷惑かけたり、絶滅危惧種の動植物を貪ったり、地球環境破壊を助長したり、ましてや人を殺してよいはずがない。
よそ様の生命を頂くからには、何でも良いから世のため、人のため、小さなことからコツコツと、やっていくてぇ~のが、人の道てぇもんじゃ~ぁござんせんか?

「ならば、将来無機物から人間の栄養となる物質を工業的に作成できる時代がきたら、『いただきます』と言わなくてもよくなるんじゃないか」と思った、そこの君!フッフッフッ考えが甘い。

地球を守るため、自ら太陽に飛び込む鉄腕アトム。大作少年の命令に叛いてギロチン帝王を抱え、宇宙空間で爆発するジャイアントロボ(TV版)。核ミサイルを防ぐため自ら飛び込む攻殻機動隊stand alone complex のタチコマ。スカイネットの技術を残さないため自ら溶鉱炉の中に消えるターミネーター2。惑星イトカワのサンプルを地上に届け、自らは燃え尽きた人工衛星はやぶさ。

これらは、創作の産物であったり、事前に決められ、プログラミングされたものだが、ウルウルするのは私だけではないでしょう?将来アシモフのロボット3原則が実装された人工知能が実現して、人間のために自らを犠牲にするロボットが現れた時に、人はきっとウルウルすると思うのだ。(人を殺すロボットはもう実現しているようだけど。怒怒怒!!)

非生命であったとしても、他者のために自発的に自らを犠牲にする存在に敬意を払う感情は、自然なものだと思うのだ。生物・非生物を問わず、自らを犠牲にして、他者の生命を長らえさせる存在に、益を与える存在に敬意を払う。これが「いただきます」の価値の核心だと思うのだが、どうだろう?

「itadakimasu」より一足早く世界語になりつつある言葉「mottainai」。
とりあえず必要がなくなっても、なんらかの形で利用できるものは保管して再利用を図る「mottainai」も、この日本的なアニミズムの延長線上にあると考えている。
「mottainai」同様、「いただきます」の価値観は世界に広める普遍性があると思うのだ。

「itadakimasu」を世界語に!

2013年3月8日金曜日

「兵法」の学校教育導入を!

学校教育で「兵法」を教えるべきだ。
できれば、基本的な概念については中学校で教えるべきだ。
文系、理系に拘わらず大学の教養課程では必修であるべきだ。
道徳の教科化などよりも、よっぽど導入して欲しい。

こんなことを書くと「極右!」、「保守反動!」、「ファシスト!」、「人殺し!」などとという非難が聞こえてきそうだ。

ちょっ、ちょっ、ちょっと待っていただきたい。
私は、人の殺し方を教えなさいと言っているわけではない。
私は、戦前の軍事教練を復活させろと言っているわけでもない。
私は、戦争の仕方を教えなさいと言っているわけでもない。
私は、「ハートランド・リムランド」のような地理政治学専門用語を教えなさいと言っているわけでもない。

「兵法」という言葉が悪ければ、「生き残っていくための戦略的考え方」と言ってもよい。
「生きる力」を構成する要素のひとつとして、彼我の状況を冷静に分析し、目的の結果を得るために、どの様に効率よく達成するかを考察する「兵法」の考え方が重要だと訴えたい。

「生きていく」ということは、生存するために必要な食料・お金・環境等の資源を認識し、内外の状況を客観的に分析し、将来に対する予想を立て、他者と協力・競合し資源を獲得してゆくことだと思っている。行き当たりばったりで生きてゆくこともできるだろうが、人間ならば頭を使って生き残る確率を上げる必要がある。これらの事項は客観的に知識化できるし、人生の様々な局面で利用できる。
それに対し「何のために生きるのか」は人生の目的であり、信教の自由とも関わるため、全国一律に教育していくことは難しいのではなかろうか?生命の尊厳など誰もが認める事項を除いては。

「兵法」というのは、狭義には国家レベルの軍事的戦略や、宮本武蔵のような武芸者の生き方・姿勢・武術を指すかもしれないが、そこには明らかに「生き残っていくための戦略的考え方」が説かれている。

大江健三郎氏は「曖昧な私の日本」と表現したが、私はそれを次のように言い換えたい。日本の社会全般に「生き残っていくための戦略的考え方」が欠落、または希薄だ、と。
それは国、地方自治体、企業、各種団体、個人においても言える。
企業経営者に限らず、日本の国、企業、団体のトップは、「経営」を戦略的・合理的・哲学的に考えていない。

日本国憲法はその前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べているが、残念ながらそれを許す国際情勢は、日本国憲法成立以前も、それ以後もほとんど成立していない。成立していないならば成立するように日本国政府は世界に働きかけたかと言えば、積極的に働きかけているようには見えない。
環境権など新たに憲法に加えるべきとの議論もあるが、いまだ実現していない。

厚生労働行政は、ILO勧告に積極的な対応を見せず、足尾鉱毒事件、ハンセン病の隔離政策の撤回遅延、エイズ薬害の放置など、国民の健康・労働を守るという本来の使命を積極的に実行しようとしていない。

企業経営においてはCI(コーポレイト アイデンティティ)など流行ったことがあるが、その理念を明文化し、企業風土として実現した企業は、残念ながら多くないように思う。
また経営課題の戦略的重要性の判断が遅く、広義の資本投入が不足し、適切なリスク管理がなされない。

女子柔道の体罰問題や各地の教育委員会のいじめ隠蔽等は、各組織の本来の使命を忘れているように見える。

個人については。。。(いわずもがな)

「空気」を読んで、「和を尊ぶ」のはよいが、自身の価値観・特質を明文化(自覚化)せず、内外の状況等を客観的・合理的に考察せず、各種状況の変化に応じて本来の目的と実際の行為の意味を考えず、結果的に勘・経験・度胸で各種判断が下される。

日本社会に蔓延するこれらの悪弊の多くは、自らの生存基盤(自身の特質・価値観も含め)を繰り返し戦略的に考えることによって、多くは解消するようにも思われる。現在の社会人に無理かもしれないが、教育から変えることによって、数十年で相当解消されると思うのだ。戦後の平和教育によって平和思考の国民ができたように。

残念ながら、最後に、実際に国際情勢を考える上で、「武力による他国への国家意思の強制」を考えないわけにはいかない。今日現在も世界各地で戦争行為は行われている。先進国である英国とアルゼンチンはつい30年前戦争した。北朝鮮は核・ミサイルの開発を取りやめない。

「兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり」 孫子

戦争を語る上において、戦争をしたいが故に戦争を語るのではない。戦争というものを知ることによって戦争を起こさないためだ。戦争の悲惨さ、戦争の愚かさを学ばなければならない。そのためには構造的暴力などという専門用語は学ぶ必要があるかも知れない。。。

ともかく、「兵法」の学校教育導入を!

2013年3月5日火曜日

第四生物 言語・文字・印刷・インターネット・攻殻機動隊・人類補完計画・王蟲?

非常に興味深いニュースが飛び込んできた。

遠く離れたラットの脳を接続、米・ブラジル間で成功
複数の頭脳をつなぎ合わせて「スーパー脳」を創造する試みとして、遠く離れた北米と南米の実験室にいるラットの脳を電極でつなぎ、片方のラットが覚えたことを別のラットに伝えることに成功したという。

オバマ大統領は人類の全脳の機能を解明する国家プロジェクトを立ち上げようとしているとも報道されている。

これらのニュースを聞いて、「攻殻機動隊の電脳化社会が始まった!」とか、「ゼーレが人類補完計画の一部を顕在化した」とか、「ゆくゆくはナウシカの王蟲だよな」とか、私をはじめ一部の人々はワクワクしていると思う。

上記の各言葉は、知っている人には説明不要だし、知らない人にはそれぞれ説明が長くなるが、ブログの展開上、必要最小限説明しよう。

漫画・アニメ「攻殻機動隊」で描かれる近未来社会では、延髄に直接ネットワークケーブルを接続できるようになっている。サイボーグ達は、音声等を経由せず直接コミュニケーションを図っている。
「新世紀エバンゲリオン」の世界では、世界を裏から操るゼーレと呼ばれる組織が描かれる。ゼーレは「人類補完計画」と呼ばれる全人類の自我を融合する計画によって、人類の危機を回避することを画策している。
アニメの原作「風の谷のナウシカ」に出てくる王蟲は群全体が「個ニシテ全、全ニシテ個、時空ヲ超エテ心ヲ伝エユク」存在として描かれている。

これらすべてに共通していることは、個々の個体を超えて知識・意思・感情・心などを共有している生命体が出てくるということだ。それだけならば単なるアニメの設定の話だったが、現実に「スーパー脳」の実験が始まったとなると、「情報を共有する生物」のことを考えることも意味がでてくる。

実は「情報を共有する生物」という概念で括ると話はもっと大きなトレンドの中で捉えることができる。
600万年前に二足歩行を始めた人類の祖先は、十数万年~数万年前に、単なる感情や警戒警報だけではなく「知識」を伝える方法として「言語」を操り始めた。そして1万年~数千年前に世界各地の古代文明で「文字」が発明され、時間や空間を越えて知識が共有された。そして紙の発明・活版印刷・放送・インターネットと時代の流れを追って行くと人類の進化の方向性として「情報を共有する生物」が必然のようにも思えてくる。

このトレンドを「人類の進化の方向性」ではなく「生物の進化の方向性」と捉えるとさらにもっと大きなトレンドが見えてくる。

およそ30億年前、初期の地球が冷え、海が誕生するとそこに原核生物(ここでは第一生物と呼ぼう)が誕生した。原核生物とは遺伝情報がまとまった細胞核を持たない単細胞生物のことだ。

光合成を行う原核生物や酸素呼吸を行う原核生物が融合して遺伝情報が纏まった細胞核を持つ真核生物(同、第二生物)が誕生した。光合成を行う原核生物や酸素呼吸をになう原核生物は真核生物内の細胞小器官、それぞれ葉緑体やミトコンドリアとなった。

20億年前、真核生物の一種シアノバクテリアによって地球大気に蓄積された高濃度の酸素によって生物は効率よく運動することが可能となり、6~5億年前に多細胞生物(同、第三生物)が爆発的に分化した。(カンブリア爆発と古生物学では呼ばれる)

第一から第三生物を考えるとそれぞれ生命の基本の部分で大きな変革が起きていることがわかる。現在起きている出来事が最終的に生命システムとして情報共有を起こすかはわからない。しかし、現在のこの状況は「情報を共有する生物」という第四生物の誕生中と捉えると分りやすい。(ちなみにこの「第四生物」という概念は私の自作ではなく放送大学でやってました。)

「『情報を共有する生物』という意味ならば、蟻や蜂などコロニーとして生存し、個々の個体が生殖・生産・防衛などを分担する、いわゆる社会性昆虫がいるではないか」というツッコミが聞こえてくる。
確かに餌のありかなど情報を共有する昆虫は存在するが、社会性昆虫はほとんど遺伝子を共有していて、人間のように自我を持った段階以降の情報共有ではなく、どちらかというとコロニーとして多細胞生物に近い気がする。

第四生物が、自我を超越したのならば、どの様な宗教を持つのかわからない。突然「世界」に放り出された「孤独な自我」が「自身」と「世界」をどう認識・解釈するかが宗教の肝であるからだ。またおそらく第四生物は、類としては殺し合いは行わないだろうから世界政府を実現しているかもしれない。

第四生物は、おそらく現在の人類から生まれるだろうが、全人類がそのまま移行するとは限らない。クロマニヨン人は現生人類と争って姿を消したのかどうかわからないが、現在の世界では見当たらない。それと同じように「情報を共有する生物」に進化できなければ、クロマニヨン人と同じ運命をたどる人々がいるかも知れない。

「私、デジタル原人なんです~。」などとへらへらしている人は、どうなっても知らないよ。

2013年3月2日土曜日

「不完全性定理」大好き! 新しい誤用の追加

ユークリッド原論の平行線の公準(直線以外の点を通って、直線に交わらない直線が1本だけ引ける)は他の公理からは証明も否定もできない。平行線の公準を真として成立するのが通常のユークリッド幾何学。三角形の内角の和は180度だ。平行線が一本もないとして成立するのが楕円幾何学。ボールなどの表面上で成り立つ幾何学で三角形の内角の和は180度より大きくなる。2本以上あるとして成立するのが双曲線幾何学。ドーナツの内側の面などで成立する幾何学。三角形の内角の和は180度より小さくなる。

これら3つの幾何学は、平行線の公準をどう扱うかによって、論理的に矛盾なく、性質の異なる幾何学としてそれぞれ成り立つ。

有限個の公理では否定も肯定もできない定理が必ず存在し、他の公理では否定も肯定もできない公理に準じた命題を前提・要請することによって幾何学のような大きな論理体系が拡張された。
同様のことが数論にもある。自然数しかなかった数の世界に-1などの負数の概念が導入され整数論になったり、i=√-1という虚数の概念が導入され複素数論に拡張されたのだ。

新たな誤用(後述)を追加すれば、それまで当たり前とされた考え方に、まったく別な角度の考え方を加えると、より普遍的な拡張がなされることがあるということだ。

前文は純粋に数学・論理学的概念が、私をinspireした私の勝手な主張だが、その究極の例がゲーデルの不完全性定理だ。

ゲーデルの不完全性定理とは数学基礎論の最重要の定理で、完全・無矛盾な公理体系が存在しないことを示した。(不完全性定理をイメージ的に理解するにはこのページが理解しやすい。)
この定理自体は、厳密に数学・論理学上の定理で、理解するにはそれなりの努力を要する。

要は、限られた数の公理から導かれる(演繹・証明される)定理には限界があり、否定も肯定もできない定理が存在する(第一不完全性定理)。無矛盾の公理系は自らの無矛盾を証明できないし、矛盾のある公理系は自らの矛盾を証明できる(第二不完全性定理)。

不完全性定理自体は純粋に数学・論理学の世界の議論であり、物理的な現実世界とは何の関係もない議論だ。用語は厳密に定義され、その記述は数式の羅列で、人間性がかかわる余地はなく、時間的な観念も空間的な観念も存在しない。そのため不完全性定理の結論を、単純に現実世界の様々な議論の論拠とすることは明らかに誤りだ。

だがそこに時間経過や、空間的広がり、人間性、戦略、ゲームのルールなど現実世界の様々な現象を適用すると実に示唆的になる。

ドーム球場で野球をする際、打球が天井に上がってしまい落ちてこないことがある。これを、野手が取れないところまで打ったのだからホームラン扱いだとして考えることもできるし、二塁打扱いにするかもしれない。なかったことにして投球からやり直すという考え方もあるだろう。野球というゲームで遊び始めた人たちには考えられなかったし、考える必要もなかった事態だ。

刀・槍・弓矢・騎馬という従来の戦法で戦国時代最強と謳われた甲斐の武田騎馬軍団を、織田信長は火縄銃という新兵器を用いることによって撃破した。火縄銃という技術革新が戦の戦い方を変えたのだ。

家庭用ホームビデオの草創期、技術的にはソニーのβ-MAXが圧倒的に優れていた。しかし、技術的には劣っていても視聴できるコンテンツを取り揃えたVHS陣営に駆逐されてしまった。

国内市場の寡占化を防ぐために独占禁止法ができたが、自国企業が国際市場で生き残るために独占禁止法が緩和される。

オリンピックの柔道は、テレビ映りを考慮して、青い柔道着が導入され、ルールが変わった。

西洋哲学の源流ソクラテスは弁証法を提唱した。ある命題定立。それに反対する立場の反定立。その両者を統合して新しい地平を拓く止揚。思えば不完全性定理は弁証法の数学的表現のようにも見える。

これらのことから勝手に教訓を上げると次のようになる。
・明文化したルール、戦略、社是、法律等には自覚の有無に拘わらず適用範囲があり、機械的に解釈すると明文化したルール等に適応しない状況の変化が起こりうる。
・その状況変化に対応したルール等を再構築しても、新たな状況変化は限りなく発生しうる。
・もしあらゆる状況変化に対応したければ、その明文化されたルールの中に互いに矛盾した内容が含まれている必要がある。

最後の項目は解りづらいかもしれない。例を上げれば、日本国憲法の中で基本的人権と公共の福祉の関係を考えればよい。
さらにこんな例もある。とある宗教団体の法主は、宗祖の教義を未来永劫残すため、遺言に次のような条項を遺した。
一、時の貫主為りとも仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
一、衆議為りとも雖も仏法に相違有らば貫主之を摧く可き事。
宗祖の教義を永遠ならしめようとした法主の深い洞察が窺がわれる。

不完全性定理と関係があると思われる勝手な例をいくつも上げたが、こんな勝手なことを思う人は
他にもいるようで、不完全性定理の誤用を解説するだけで1冊の本ができている。中には「神の存在が証明された」と捉えた人もいるようだ。

えっ!前のブログで書かれていた不完全性定理がパラダイム変換に結びついてないじゃないかって?
それはいつかのお楽しみにとっておきましょう。

私にとってゲーデルの不完全性定理のイメージは無限ともいえる発想の展開を触発してくれる。
不完全性定理大好き!

2013年2月27日水曜日

日本のソフトパワーについて

ソフトパワーという言葉がある。
ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が1990年代に提起した概念で、ハードパワーという言葉と対になっている。

軍事力や経済力などで自国の意思を他国に強制する力をハードパワーと言い、文化や価値観などで他国に影響力を及ぼす力をソフトパワーという。
よく出てくる例だが第二次世界大戦後、映画などで描かれる豊かな生活や自由な思想などは、日常生活に困窮していた我が国の民衆を魅了した。

21世紀に入り、中国とロシアがこのソフトパワーの重要性に気づき、ソフトパワーの強化を図っているという。ところがそのジョセフ・ナイ教授が中国とロシアは勘違いしていると指摘している。

翻って我が日本でもクール・ジャパン戦略と銘打って官民上げて漫画・アニメ・原宿ファッション・J-POPなどのコンテンツ産業や寿司・ラーメン・日本食等の食品産業の海外展開、「おもてなし」と表現される国内観光を支援するという。GNPを押し上げるために大切なことではあるが。。。中国・ロシア程ではないにしろ、これもちょっと違和感がある。

私はソフトパワーの本質は、他国にも通用する普遍的な価値を実現し、他国の人々から尊敬され憧れられる国・存在となることだと思っている。
その意味で、戦後の荒廃から不死鳥のように甦り、60年以上戦争を起こさず、実質的に世界の最長寿国で、失われた20年でも失業者が溢れ返っているわけではなく、3.11後の秩序だって協力的な国民性、女性が一人で夜間外出できる安全性、偽札や食品偽造を心配する必要がなく、道路がきれいで、自然が美しく、食べ物がおいしい日本は、十分にその資格があると思うのだ。(こう書くと理想郷のようだが、当然そんなことはない。)

要はこの様な日本をどう世界にアピールするかなのだが、下手すれば単なる「自慢シイ」になってしまうので、注意が必要だ。

「礼楽(れいがく)前(さき)に馳せて真道(しんどう)後に啓く」という言葉がある。音楽や芸術が最初に受け入れられ、その後その基盤となる思想・価値観が啓蒙されるという意味だ。クール・ジャパン戦略が、これを意識していたならば、たいしたものだ。

またもうひとつ大切なことは、影響を及ぼそうとするその国に、貢献する・役に立つ・ためになるということが大切だ。今風の言葉で言えばWin-Win関係というやつだ。一方的に搾取するのでは、帝国主義時代の植民地と変わらない。

世界には様々な宗教・国民性・歴史・政治体制・地理的条件等を持つ国がある。その様な国々から憧れられるような普遍的な価値を説明し、納得させることができるか。それが日本のソフトパワーを拡大する鍵だと私は思っている。

2013年2月25日月曜日

はじめに

ブログはじめました。

私はよく「話が長い」と罵られています。
話をする際、思っていることを正しく伝えようと思って、厳密な言葉遣いをしたり、聞いている人の経験・知識・理解力に合わせて説明を付加しながら話すことを心がけています。
ところが、それが人によっては「鬱陶しい」とか「回りくどい」とか「反ってわかり辛い」と思われているのかもしれません。
また私の中では明確に結びついているのですが、周りの人からは話が飛んでいるように見えるようです。例えば不完全性定理とパラダイム変換など。(説明割愛)
でもブログならば、直接相対している訳ではないので、その特徴が生きるかもと思っています。
twitterもやっているのですが、いかんせん140文字の縛りはきついです。

ブログのタイトルを「蝶の羽ばたき」としました。
名前は大事です。「名は体を表す」のですから。ブログ全体を体現するタイトルをつける必要があると思っていました。それだけで3日位は悩みました。
なので文書の題名やメールのタイトルにいい加減なものを見ると「ムカッ」ときます。あんまり言いませんが。

「バタフライ効果」という言葉があります。ドラマ「Jin」や映画「ジュラシック・パーク」にも出てきましたので、ご存知の方も多いと思います。蝶々の小さな羽ばたきが、めぐりめぐって様々な影響を及ぼし、ひいては地球の裏側で嵐を起こすという例えで語られます。
デカルトに始まる要素還元主義(物事を理解する際、全体を部分部分に分けて、各部分を理解して、それを統合し全体を理解しようとする考え方)に対して実在するもの・ことは要素に分解することはできても、その要素が相互に影響を与え合い、個々の要素を理解しても全体としては理解できない。全体として理解する必要があるという考え方「複雑系」。

 この複雑系の考え方のひとつに「初期値敏感性」(複雑系においては初期値のほんの僅かな違いが、結果に大きな違いを及ぼす)という特性があり、「バタフライ効果」はこの通称です。
より身近な例としては、日本経済が上げられるでしょう。日経平均株価・為替・企業業績・国民所得などは相互に影響し合い、全体として経済が動いています。
このブログをそのような「蝶の羽ばたき」のひとつにしたいと思っています。

最近、友人が世界平和に向かってchallengeを始めました。その意気や良し!!
他にも理由はあるのですが、その友人のシビレエイに痺れてブログを始めることにしました。

ネットではあらゆることに様々な発言がなされています。
ただその多くは無責任であったり、誤認識があったり、為にする批判であったり。。。
「そのとおり!」と思う言論が少ないように思います。

このブログが多くの人から「そのとおり!」と思って貰えるよう願っています。